何を怖れる » 松井監督・制作日記 http://feminism-documentary.com ドキュメンタリー映画 何を怖れる -フェミニズムを生きた女たち- Sat, 23 Aug 2025 08:38:35 +0000 ja hourly 1 http://wordpress.org/?v=4.2.1 制作日記 No.3 http://feminism-documentary.com/%e5%88%b6%e4%bd%9c%e6%97%a5%e8%a8%98-no-3/ http://feminism-documentary.com/%e5%88%b6%e4%bd%9c%e6%97%a5%e8%a8%98-no-3/#comments Thu, 24 Jul 2014 11:02:49 +0000 http://feminism-documentary.com/?p=685

■2014年3月15日

 中国の従軍慰安婦・万愛花さんを偲ぶ集会。今回のインタビューを快くお引き受けくださった集会の主催者・元NHKディレクターの池田恵理子さんへのご挨拶もかねて、はじめてカメラを持っての取材である。
 集会に参加して、現政権になって再び日韓の政治問題と化している従軍慰安婦問題が、政治問題でなく人権問題、女性問題なのだと、改めて強く思う。韓国の従軍慰安婦の声には触れることが多いが、今日の集会では中国や台湾の実情も知ることができ、勉強になった。


■3月16日

『折り梅』で照明助手をしてくれた尾下君に会う。
 作品の大半がインタビュー映像になるとなれば、映画的なひと工夫が欲しいとさんざん考えたあげく、大がかりにならない光のあて方で「何かいいアドバイスはないかしら」と尾下君に電話する。と、タイミングよく、その日のうちに会えることになった。
 たまに電話で話すことはあったものの、会うのは『折り梅』以来なんと13年ぶり。あの頃はまだ独身で、笑顔にいたずらっぽさの残るシャイな青年が、いまでは3人の子の父になり、立派な技師さんに成長した姿が、頼もしい。5月からは是枝監督の映画の仕事が決まっているそうで、着実に仕事の成果をあげてきたこともわかり、うれしかった。
「手伝いますよ。何でもやらせてください。4月いっぱいなら空いてますから」
「そりゃあ私も尾下君に手伝ってもらえれば有り難いけど、今回は映画の照明さんを雇うようなお金はないの」
「お金なんて、予算内でいいですよ。久しぶりに松井監督と一緒に仕事ができれば。手伝わせてください」
「でも、機材も要るでしょ?機材があれば車だって。ほんとに、無理無理」
「機材屋には僕が頼めばライトのひとつやふたつ貸してくれます。車は僕のを使えばいいんだし。とにかくやらせてください」
 そんな感じで強力な助っ人をひとりゲット。予算の心配はあるが、さい先は良さそうだ。


■3月18日

 上野さんの山梨市での講演会が、結局開催されることになったと知って、山梨にとんでいく。
 ネット・ニュースによると、山梨市で半年以上前に決まっていた上野さんの講演会が突然市長の意向で中止になり、その市長の判断に異議を唱える市民たちが署名運動をはじめたり、マスコミも騒ぎ出したため、市長は急遽中止を撤回、講演会が無事予定通り行われることになったそうである。
 またも、フェミニストへのバックラッシュが始まったのか…と、何年か前に国分寺市で上野さんの講演がキャンセルされたときのことを思い出す。
 昨日そのことを知って、あわてて上野さんに電話をかけて取材のお願いをした。
 上野さんの快いご返事に、勇んでカメラと三脚をかついで山梨市に向かったのだ。

 予定より1時間も早く山梨市市民会館に着いて、突然思い出した。
 その会場は10年以上前に『ユキエ』も『折り梅』も上映した所ではないか!
 二作品の上映会を主催してくれたSさんとは今でも年賀状のやりとりをしているのに、どうして気づかなかったのだろう。思い出していたら、前もってSさんに連絡をして、久しぶりにお会いできたかもしれないのに…。
 上野さんが昨日のうちに話しておいてくれた山梨市役所の担当者に挨拶すると、
「ここの住民でS.Sさんという方をご存知ないですか?」と聞いてみる。長い間山梨市の市民運動で活躍されてきた方だから、きっとお役所の人も知っているに違いないと。
 が、担当の若い女性は「お名前は知っています。今回の署名運動もされていると聞きましたけど、私はSさんのお顔も存じません」とのことだった。
 
 そうこうするうち上野さんが会場入りして、講演の準備に入られる。笑顔の上野さんに緊張感のようなものはなく、スタッフとの丁寧な打合せが終わり、楽屋に入ったところで件の市長が登場した。
 「これはどうも、どうも。市長の望月です。今日はよろしくお願いします」と名刺を差し出しながらのご挨拶は、昨日までのトラブルがまったくなかったように爽やかな笑顔である。上野さんも市長にあわせて柔らかく、大人の応対をしていらっしゃる。
 そこで突然、私の取材者魂がムクムクと頭をもたげた。
 カメラを市長の面前に構えながら、
「市長、今回市長がどういう理由で上野さんの講演会を中止と判断されたのか、その理由を聞かせて頂けますか?」
 そんな質問にも市長は、よほどいい人なのか、ニコニコとカメラ目線でお答えになる。
「いやあ、あんまり抗議があったもんで」
「市民の抗議が少しでもあると、一度決定したことを変えてしまわれるのですか?」
「いやいや、報道で言われているより沢山あったんですよ」
「だから、市民の抗議があれば決定事項も変えてしまうのですね?」
「いや、そんなことはないですが、抗議の…」
これでは同じ問答の繰り返しになるので、質問を変えて、
「その話はわかりました。で、市長さんが一度中止と決めたことを撤回されて、講演会を開催すると決められた理由を教えてください」詰め寄っても、市長は相変わらず穏やかな笑顔で、カメラを見ながら、
「それは、ここにいる担当の者たちがあまりに熱心だったもので、ま、この仕事熱心な部下たちに免じて…」とお答えになるのである。
 だめだ、こりゃ。私は質問(詰問?)する気がしゅるしゅると萎えていき、手は自然にカメラのスイッチを切っていた。
 そしていよいよ講演の時間が迫り市長が席を立ったとき、上野さんがピシリと言った。「市長さん、私も今回のことでは大変迷惑をかけられました。市長判断の二転三転によって迷惑をかけられたのは市民も同じだと思います。ご挨拶の時、市民と私に謝られたほうがよろしいと思いますよ」
 その後市長は、「それはできません」的な反応を示したと記憶してるが、5分後、市民の前に挨拶に立ったときは、きちんと市民と上野さんに対する謝りの言葉を述べておられた。
 でも、「やっぱり頂けないな」と思ったのは、自分の挨拶を終えるとさっさと会場を後にしてしまったことである。市長は市民の信頼を回復するためにも、せめてその日の講演は何を置いても一緒に聴くべきだった。結局舞台で謝ったことも「すべて帳消しね」と思ったのは、私だけだったろうか。

 ところで、楽屋での市長インタビューを断念した私は、会場で客入りが始まったと聞いて、一目散にホールに走った。
 そして会場入りするお客様の顔がいちばん見えやすい所に陣取ると、懐かしいSさんの姿を探し続けた。署名運動までされたというなら、この会場にかならずいらっしゃるに違いない。なんとか見つけなければ。でも、10何年も前にこの会場でお会いしたきりの方を見つけることなどできるだろうか…。
 と、会場入りする人びとの列を目を皿のように見ていたとき、
「あ、Sさんだ!ぜったいあの方に違いない」と、簡単にわかったのだ。
 彼女がお友達ととった席に走っていって、
「あの〜、もし間違いだったらごめんなさい。S.Sさんではありませんか?」
と尋ねると、目の前の方はいぶかしいお顔で、
「はい、Sですが…」と私の顔を怪訝そうにご覧になるだけである。
「お久しぶりです。私、松井久子です。『折り梅』の…」と言った途端、Sさんの顔がみるみる輝いた。
「あんた、何でこんな所にいるの!?」
その後は、二人手と手を取り合って、十数年ぶりの再会を喜んだのだった。
 でも、『折り梅』の上映会以来12年ぶりのSさんの顔を、ちゃんと覚えていたなんて、すごい。まだボケてないぞ。

 それにしても、その日の講演会の人気はすさまじかった。山梨市民ホールは開場するとあっという間に満員になり、上野さんが舞台に登場すると割れんばかりの拍手である。
 だいたい「おひとりさまが在宅で死ぬために」というテーマでどうして中止騒動など起きたのだろう。安倍政権になってから、やはり中央から地方への引き締めも強まっているのだろうか、それとも地方の役所にありがちな自主規制のたぐいなのか。

講演後 上野さんの写真

講演後、マスコミの取材を受ける上野さん


 いずれにしても市長の勇み足のお蔭で講演会がかえって注目され、大成功に終わったのは万々歳。
 ただ、市長の決定を翻すことに成功したのも山梨市民なら、選挙であのようなトップを選んだのも市民なのだ。上野さんの講演はさすが素晴らしかったが、会場全体が「こんな市長で恥ずかしい」といった空気一色だったことには、「なんだかヘン」と少し違和感もあった。
 講演の帰り、上野さんの運転する車に乗せて頂いて東京に向かう。互いに私語らしい会話をするのははじめてのこと。ドライブの間、フロントガラス越しに輝く満月をめでながら、語りあった2時間。「女同士っていいな」と、とても心地のいい夜であった。

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制作日記 No.2 http://feminism-documentary.com/%e5%88%b6%e4%bd%9c%e6%97%a5%e8%a8%98no-2/ http://feminism-documentary.com/%e5%88%b6%e4%bd%9c%e6%97%a5%e8%a8%98no-2/#comments Tue, 22 Jul 2014 12:00:03 +0000 http://feminism-documentary.com/?p=678

■2014年2月12日

 インタビューしたい人のリストが、どんどん増えていく。
 田中さんは「あなたに任せたのだから、あなたの思う人を取材すればいいの」と言ってくださるが、人選はほんとうにこれでいいのか?
 お名前は挙げたものの、いずれも会ったこともない、お顔さえ知らない人ばかりである。この方たちは、はたして私のインタビューを受け入れてくださるだろうか…と、怖さの方が先に立つ。
 そのなかで『ユキエ』の劇場用プログラムに映画評を書いてくださった樋口恵子さんとはお会いしているが、それももう15年も前のことで、樋口さんはきっと私のことなどお忘れだろう。
『レオニー』公開のとき「婦人公論」の対談で、上野千鶴子さんとも一度だけお会いしている。あの日、「話が弾まなかったらどうしよう…」
こわごわ出かけた初対面の場で、上野さんは終始優しく、温かな人だった。
 その日の話題は『レオニー』のことに終始してまったく他の話はできなかったが、このテーマに取り組むなら、ここはぜひとも「フェミニズムの生き字引」に違いない上野さんの力をお借りしたい。
 でも、私ときたら対談の翌日にお礼のメールを一通送ったきりで、ご無沙汰のしっぱなしである。私から連絡を差し上げる勇気はなかった。
 田中さんに電話して「上野さんに会わせてください」とお願いする。


■2月17日

 四谷駅前のアトレで、田中喜美子さん、「わいふ」の現編集長前みつ子さんとともに、上野千鶴子さんと会う。
「それは今しかできないわよ!田中さん、私費を投じてまでして よくぞそんなことを考えてくれました。尊敬します!」
と言って、上野さんが全面的に協力してくださることになった。なんて心強いことだろう。私が示した取材希望者リストにも、さっそく的確な意見とアイデアがかえってくる。
 でも、このプランを全部実行するには、
「田中さんから頂くお金だけでは到底できません」と正直に打ち明けると、
「何を言ってるの?松井さんはマイレオニーをしたじゃないの。私も協力するから、募金を集めましょうよ!」
 上野さんは、対談でお会いしたときのまま、温かく、力強い方だった。
 彼女を味方に引き込んだのは正解だったと、一気に希望がふくらんだ。


■2月20日

 田中さんと、リブ時代のキーパーソンのお一人と伺った麻鳥澄江さんに会いに行く。
 日ごろは電車に乗ることなどほとんどないという84歳の高齢夫人が、ラッシュアワーの時間に、電車を何回も乗り継いで、隣の県まで出かけていく。インタビューを受けて欲しいと口説くために。この情熱はどこから来るのかしら…と、頭を下げずにいられない。
 二十数年ぶりの再会というフェミニストたちの語らいは、深夜まで及んで、田中さんのお疲れのご様子が、ちょっと心配。これからは田中さんに頼ってばかりいないで、何でも自分でしなくては…。


■2月25日

 なんでも自分でしなきゃといえば、今回のスタッフ編成ときたら!あの夢のような『レオニー』の体制との、なんという違い?
 友人の制作会社から有能で几帳面なI氏を借りて、小さなカメラを2台揃え、回すのはI氏と私の二人きりですることになるだろう。13億の製作費で私の下に総勢470人のスタッフが働いた日米合作映画のあとは数百万でつくる小さな小さなドキュメンタリー。
 この落差のあまりの大きさ。わくわくする。
 そして何より、目の前に真正面から向き合うべきものができたことに感謝せずにいられない。田中さん、ほんとうにありがとう。
 編集もPCに得意なI氏と二人で、自宅ですることになり、さっそくビッグカメラにカメラや編集ソフトを買いに行く。


■2月27日

 一週間ほど前、リストに挙げた方々にご挨拶と取材依頼のメールをお送りしておいた返事が、ぼちぼち返ってくる。
 作品に登場して頂く方々は皆さん高齢で、あちこち動き回っての取材は望めそうにない。ドキュメンタリーと言っても今回はインタビューだけの、いわば証言集になるだろう。皆さんの話の中身が勝負の作品になるはずだ。
 そして、日本のリブとフェミニズム、その歴史をたどるよりも、インタビューではお一人お一人が女として生きてきた個人的な体験を伺ってみたい。
 映像に変化は望めなくても、それぞれの方々の目の輝きや、顔の皺、そして彼女たちの発する言葉にこそ力があるはずだ。「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのスローガンどおり、あくまで「個人史」に迫りながらフェミニズムとはなんたるかをあぶり出すような作品にしたい。インタビューがすべてだ。

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制作日記 No.1 http://feminism-documentary.com/%e5%88%b6%e4%bd%9c%e6%97%a5%e8%a8%98no-1/ http://feminism-documentary.com/%e5%88%b6%e4%bd%9c%e6%97%a5%e8%a8%98no-1/#comments Mon, 21 Jul 2014 06:46:25 +0000 http://feminism-documentary.com/?p=666 映画完成までの様子を松井監督自身の制作日記でお届けします。


■2013年12月19日

神楽坂のてんぷら屋で田中喜美子さんにお会いする。
「Wife」発刊50周年のイベント会場でお目にかかったのは、ひと月前のこと。
 その日、私が既存の映像をまとめるお手伝いをした「わいふ」誌50年のドキュメンタリーが上映され、温かなねぎらいの言葉を頂いたばかりである。
 その方が「もう一本、別のドキュメンタリーを作りたいと考えていらっしゃる」との、友人の現編集長・前みつ子さんのお話で、ご本人のお気持ちを直接うかがうことになったのだ。
 ずっと活字の世界で仕事をしてきた田中さんが、「わいふ」のドキュメンタリーについて「映像にするとこんなにも解りやすく、人に伝えやすいとは知らなかった」との感想がうれしかった。
 そして、「私の仲間が、つぎつぎ死んで行っちゃうのよ。日本のフェミニストたちを映像に残せるのは、今しかないと思うの」とのお言葉には切実な迫力があって、なんとかこの方のお気持ちに応えたいと、素直に思った。
 が、フェミニズムといえば、私がこれまでの人生のなかでずっと一線を画してきたテーマである。自分が監督として取り組むことは、ちょっとあり得ない話のように思えた。
 いっぽうで、私にとってこれほど有り難いことはないとも思う。いまの私には向き合うべきものが何もなく、とにかくつくることに飢えているのだ。また映画をつくるチャンスが与えられるなら、どんなに小さなものでもやってみたい。揺れながら、覚悟は決まらず、田中さんとお別れすることになる。


■2014年1月18日

 暮からお正月にかけて買いためたリブの資料を毎日むさぼるように読んでいる。資料写真
 机の上には日に日にリブ関係の本や資料が山積みされていき、彼女たちの書いたものを読めば読むほど、田中さんのお誘いに乗りたい気持ちがつのっている。
 私はあの頃リブを横目に眺めていただけだけど、こうして読んでいると遠い青春の日々が思い出されて懐かしい。彼女たちがこんな訴えをしていた間、私はいったい何をしていたのかと、忸怩たる思いのなかで考えた。
 彼女たちはこれだけ膨大な活字資料を残しているけど、はたしてこれらがどのくらいの人に読まれているだろうかと。
 リブたちが訴えていたことは、女性にとって根源にせまる思想であり、どんな時代のどんな境遇にいる女にも通じる普遍性をもっている。映画になったら、彼女たちの主張が今を生きている女たちにも届くだろうか。届けたいと思う。知らない人びとに届けるのが私の仕事ではないか…。


■1月26日

 映画をつくるにあたってつねに切実で頭の痛いのが、資金の問題だ。お金がなければ何も始めることはできないが、幾らなければできないというわけでもない。
 予算によってつくり方はいかようにもなるところが映像作品のむずかしいところ。
 この題材でこれまでの映画のようにスポンサーをつけたり、出資を募ったりすることは無理だろう。
 今日、田中さんからドキュメンタリーをつくるのに必要な額を聞かれて、私なりに最低はこれくらい…と答えると、「そのくらいなら、私が出せそうだわ」と笑顔で言われホッとしたが、もしその額でつくるとなれば、カメラも自分で回さなくてはならないだろう。しかも世のパパやママたちが運動会で使うような、素人用の小さなカメラで。
 ドキュメンタリーはテレビ時代に二本だけつくったことがあるが、あの時はもちろんカメラマンも録音さんも照明さんもいた。ビデオカメラなんて回したこともない私が、はたして人にお見せできる映像を撮れるだろうか?
 考えるうち、これは田中さんから出していただく資金だけでは到底できないだろうと思いはじめ、また尻込みしたくなってきた。


■2月10日

 田中さんから電話をいただき、お宅にリブ新宿センター時代のメンバーのお一人、米津知子さんが来られるから会ってみないかと言われ、神楽坂に向かう。
 2歳のときポリオにかかって以来ずっと足が不自由と聞いていた米津さんが、自ら車を運転し、資料を山ほど抱えてきてくださった。
 そのことにも感動したが、折り目正しく控えめなお人柄という印象に、私が勝手に想像していた「リブの闘志」の面影は微塵もなく、すぐに話が弾んだ。こんな人なら、私も気負わずにインタビューできるのではないか。自分の不安をそのままぶつけても受け止めてくださるのではないか。そんな気がして、
「同じ世代でありながら、リブ運動に対しては長い間、自分とは遠い人びとのことと思い込んできたのです。そのせいもあって、勝手にコンプレックスをもってきたの」と打ち明ける。
 と、米津さんは、「不思議ですね。私たちこそ、社会でうまく活躍できてる松井さんのような人たちにコンプレックスがあったのに。ぜひ、松井さんのリブに対する違和感を大切にしながら撮ってください」と言ってくださったのだ。
 これで覚悟がきまった。ほぼ同年代の、同時代を生きてきたこの人と、ちゃんと出会いたい。向き合ってみたい。
 米津さんと会ったこの日を、今回のお話を引き受ける「決心をした日」としよう。

田中邸玄関の梅

田中邸の玄関に活けてあった梅

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